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代表者の素顔

さてここからはビジネス抜きです、あとすんまへんが関西弁もかなり混じってます。それと徒然なるままに書いてるので、文語と口語もまじり気味。まあサイト全体はわざと硬いイメージにしたんでちょっと誤解をときたいと思います。リアルで会っても初対面の人からは理屈くさく思われるようですがあくまで仮面です。コンサルタントにはだまされないでください。(笑)。

あとコンサルティングは高い信頼関係がまずあって、さらに全人格的な付き合いをしないとなかなかうまく行きません。だからかなり自分をさらけ出さなあかんので、こんなページも作ってみました。暇があったら読んでみてください。しかし読んだらほんまに暇屋やで(笑)。

前置きはそれぐらいにしてまずは生い立ちから・・・

■生まれとアメリカでの幼少期
私自身が生まれたのは神戸ですが、2歳の時、父親の仕事(当時商社マン)の関係でアメリカに行きました。日本での記憶はほとんど残っていませんが移動図書館が当時住んでいた社宅に来たことぐらいでしょうか。

■ニューヨークでの生活(小学校低学年)
ニューヨーク市内はクィーンズ(「星の王子ニューヨークへ行く」の映画で舞台になった)という庶民の町に住んでいました。その中でもフラッシングという比較的ユダヤ人多いところにいましたが、友達には、ユダヤ系の人はもとよりデンマーク、フランス、インド、イギリス、中国、メキシコ、プエルトルコなどあらゆる国籍の人が混じっていました。そんな人種のるつぼの中でいろんな国の2世と遊びながら育ちました。

なぜか印象に残っているのは食べ物のことが多く、蛸を食べる国民はその時から気持ち悪がられました。また日本のカキ氷のおいしさについてユダヤ系の友達と口論したときは家までつれてきた食べさせて、納得させたこともありました。因みにアメリカのカキ氷はクラッシュアイスで粒が大きく友人はそのイメージからカキ氷は不味い物だと決め付けていたようです。

10歳になるまで住んでいましたが多様な民族のなかで育ち異文化コミュニケーションを学んだように思います。

その他にアメリカはお金儲けに関してはわりと理解があり、そのせいか雪かきやピザ屋さんでのバイトをするべくかなり小さい頃から自分で交渉しに行きました。ただ6歳ぐらいの小僧の使い道もないのでしょうがお店の人は半日だけとか親切心から窓拭きとかさせてもらってお小遣いをもらったりしました。

あと友達と家の物を持ち寄ってメインストリートにダンボールを敷き、蚤の市を勝手にやったこともありました。全員家族の承諾なしで仕入れはただだったのでもちろん丸儲け(笑)。そんな中でビジネスに興味を持ち始めたと思います。

■日本への帰国(小学校高学年)
帰国後日本の小学校に普通に入学しましたが始めての社会のテストが0点。先生が1人だけ教科書を見ることを許可してくれたけどこに何が書いてあるのかも分からず同じことでした(笑)。

またもちろん漢字のテストも0点。本人はのんきな物ですが親は大慌てで半年後には神戸大学の付属住吉小学校の帰国子女学級に通うことになりました。そこでは小学校1年生から漢字や算数をやりなおしました。まだカタカナも1部自信がないような状態でしたから。今だにヌとネ一瞬躊躇します、変換機能万歳!!(笑)。

■中学高校時代
帰国後、中学高校時代は陸上競技一色の生活を送り当時全国大会で6位(400mH)になることができた。ほとんど勉強することなく高校3年生を迎え、体育大学をまじめに考えたが体は老化するので一生スポーツでは食えないという単純な理由からやめた。

子供の頃より植物が好きだったせいか、大学ではバイオテクノロジーを専攻するため農学部の農芸化学科、そしてそのまま大学院へ進み耐熱性酵素の研究で修士号を取得した。